旬の魚を味わうという行為は、ただの栄養摂取ではない。季節、風土、海の鼓動、それらすべてを口中で咀嚼する儀式に近い。そして、春を味わう魚の代表格として、私が敬愛してやまないのが「メバル」である。

春告魚という呼び名の裏にあるもの
日本には「春告魚(はるつげうお)」と呼ばれる魚がいくつかあるが、メバルはその筆頭格だ。寒さが和らぎ、海がゆるやかに目覚める頃、メバルは産卵を終え、栄養をたっぷりと蓄えて浅場に現れる。
その姿は一見控えめでありながら、凛とした風格を帯びている。体長20〜30センチほど、黒みを帯びた褐色の鱗に、大きく張り出した目。その目こそが「眼張(めばる)」の名の由来であり、夜行性の彼らの生態を物語っている。

メバルの味覚構造──繊細かつ力強い、和のバランス感覚
メバルの味は、実に日本的だ。淡白でありながら、しっかりとした旨味を内包し、舌の上でほろりとほぐれる繊細な繊維質。だが決して頼りなさはない。煮付けにすると、醤油と酒、みりんの甘辛い煮汁をしっかりと吸い込み、骨際まで味が染みる。小骨の一本一本までもが滋味をまとい、まさに「箸を運ぶ行為」が快楽と化す魚である。
皮には微かなゼラチン質があり、煮るととろけるような柔らかさに変わる。ここに酒を添えれば、春の夜はもうそれだけで十分だ。

刺身で食べる贅沢──産地ならではの特権
あまり一般的ではないが、鮮度のよいメバルは刺身でも極めて美味である。特に漁港近くでは、朝獲れの個体をその場で皮ごと引き、軽く炙って供することがある。これが驚くほど甘く、皮目の脂が香ばしく、白身魚の固定観念を覆す。
昆布締めにして数時間寝かせると、身はねっとりとし、昆布の旨味を纏ったまろやかな味わいに。小魚ゆえにあまり見過ごされがちだが、その一切れには、春の海が凝縮されている。

メバルの種類と地域性──アカ・クロ・シロ
意外と知られていないが、メバルという名前はひとつの魚種ではない。2008年には、実際には3種の別々の魚であることが正式に分けられた。すなわち、アカメバル、クロメバル、シロメバルである。
- アカメバル:体色は赤みがかり、やや深場を好む。関西以西でよく見られる。
- クロメバル:黒っぽい体色で、北日本に多い。身が締まり、力強い食感。
- シロメバル:淡い体色で、比較的浅場に生息。味わいは上品で繊細。
この分類により、「どのメバルを食べているのか」という問いが新たなグルメ視点として浮かび上がる。市場に並ぶメバルを前に、ただ「煮付け用」として見るのではなく、その個体の出自や種類に想いを巡らせるのも、玄人の愉しみである。
漁と鮮度の関係──一本釣りの価値
メバルは底引き網や定置網、そして釣りでも漁獲されるが、もっとも味がよいとされるのはやはり一本釣りのものだ。網で漁獲された個体は、他の魚と絡まって身にストレスがかかりやすく、味がやや劣る。
特に西日本の瀬戸内海では、春先になると一本釣りのメバルが出回り、料亭筋が目の色を変える。生け締めされた個体は、目が輝きを失わず、身も見事な弾力を保っている。ここに、扱いの丁寧さが味に直結する魚の実例を見ることができる。
眼張という名の意味──夜の静謐を纏う魚
メバルは夜行性である。昼間は岩陰や海藻の影に身を潜め、夕暮れになるとゆっくりと泳ぎ出す。その瞳は暗がりでも光をとらえ、まるで夜の静謐を映す鏡のようだ。
この「夜に動く魚」という特性が、どこか料理にも表れているように思える。派手さではなく、抑制された滋味、じわじわと染みる旨味。食卓に並んでも華やかではないかもしれない。だが、ひと口目のあとに訪れる「じんわりとした納得感」こそが、メバルの本質なのだ。

結語──小さな魚に宿る大きな季節
メバルは、大衆魚である。高級魚のような威厳はないし、トロのような脂もない。だが、この魚ほど春を可視化できる存在は他にないのではないか。煮付けにしてもよし、炙りにしてもよし、小さな体に春の潮をたっぷり抱えて、今日もまた市場の一角に並ぶ。
そして我々は、ただそれを買い、煮るだけでいい。そこに季節の深みがあり、漁師の知恵があり、魚を敬う日本人の美意識がある。眼張──それはまぎれもなく、春の味覚を映す一枚の鏡なのだ。
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